Showing posts with label 教育. Show all posts
Showing posts with label 教育. Show all posts

Wednesday, 25 January 2012

モンテッソーリの教育

Alternativeな教育方法の一つとしてモンテッソーリの名前を聞いた事がある人は少なくないと思います。

モンテッソーリの教育の要は
  • 教育は自分で学ぶ事を助けること
  • それぞれの”敏感期”に応じた適切な環境を作ること
だと思います。

私も娘はとてもかわいいので、ついついかわいい存在だということに目を奪われてしまいます。親であればこれは誰でも身に覚えがあるのではないでしょうか?モンテッソーリは子どもに対してただかわいいだけの存在として認識をしていると、自分たちで成長しようとか新しい能力を身につけようとしている子ども達の足かせになるという事を指摘しています。耳が痛い話です。

ただ彼女のオリジナルの教育では、文字であったり数字の観念であったりという学ぶ事でも理論的分野へ偏重が気になります。理論だけではなく情操的や精神的人格も車の両輪として 形成されていく必用があると思います。

モンテッソーリの理論を当てはめると個人的に圧倒的な危機感を感じるのは、家族で海外に引っ越した場合、私が子供が一緒に話をしたいと思う人間でいなければ日本語の教育はそれこそ子供の興味に反して教え込まなければならくなってしまいます。まあ、「日本語はそんなにできなくても良いか」と考えるか、とても良い日本語の本やテレビ番組を見つけるという逃げ道も残されていますが…。

Tuesday, 24 January 2012

シュタイナーの思想

シュタイナー教育の内容について調べていたのですが、やはり本人の思想を知らずになぜこのような教育手法を編み出したのかということを理解する事は出来ないと思い、当人の思想を調べてみる事にしました。シュタイナー教育を自分の子供に受けさたいと思う親が一歩思いとどまる箇所は、シュタイナーの”神秘学”・”神智学”、また”オカルティズム”などと日本語で一般に呼ばれている考え方です。

またも図書館を探し、小杉英了著”シュタイナー入門”という書籍を見つけました。この書籍は彼の生きた時代背景の説明などもあり、最初から本人の著書をよむよりもこのような思想の生まれた背景を説明した書籍に当たる事が有用に思えました。

”目に見えるものや触れるものは影にすぎない”という思想は古くからあるもので、また私も共感する所です。その目に見えるものを感じるということはどういう事かという接点の興味からシュタイナー教育特有の幾何学模様を使った教育手法が出来てきてきたという件は、興味深く思いました。オカルティズムに関しても、正統と政治的・歴史的に認識された以外の教義はアンダーグラウンドの怪しい宗教と見做されるという点についても個人的に共感する体験はあります。

この著書について私は全てを信頼する立場にはありませんが、シュタイナーの思想を理解する足がかりの一つとしてとても良い書籍だという印象を受けました。

Saturday, 21 January 2012

シュタイナー学校(教育手法)

子どもの教育は長期的視線を導入せずに日々を楽しむのが一番良い方法でしょうか?確かにそういう人もいます。しかし自らのキャリアを考える時もまずは大枠で10年・20年ぐらい先に何をやっていたいかという目星を付ける事によって毎日何をしようかと慌てる事無く余裕を持って過ごす事ができます。これと同じで子育ても決めた事に変更がかかるのは当たり前という前提の上で、私は基礎となる長期的視点を導入したいと思います。

日本での一般的な教育は確かに日本語(で)を教えてくれるという明確なメリットがあるにも関わらず、私個人としても家族でも今ひとつ釈然としない点が多くあります。問題は基本的な方向性として納得できないという事でしょう。

ドイツでシュタイナー学校出身の知り合いがいた事から、シュタイナー教育に興味を持ちました。ニュルンベルグにあるシュタイナー学校の一つを訪れたときにはとてもい良い印象を受けました。図書館でシュタイナー教育に関する書籍を借りてきました。今回読んだのはプラハのシュタイナー学校で学んだ日本人家族の体験をまとめた松田幸弘著”プラハのシュタイナー学校”という書籍です。同じシュタイナー学校でも国によって、学校によってやっている事は同じではないと思いますが、一定の基準の参考にはなると思います。

こちらの学校では子どもたちがのびのびと自発的に学び、育っていく家庭を両親や先生がサポートするだけの姿勢に好感を持ちました。私がとても面白いなと思った教育のシステムは、物事の見方を育む教育と道具として身につける必要のある事柄を教える事が車の両輪のように用意されている事、知識だけではなく情操教育にもしっかりと視点が置かれている事です。先生達は市販の教科書を使用せず、自分で資料を集め、自分の言葉で教えるそうです。自分にサブジェクトに対する知識が無いとできない事です。深く物事を理解するための教育は、小学校のころから1つの学期を通して毎日二時間のコマで一つの事柄について学ぶ時間が割かれています。この中では例えばどうやって歴史が流れてきたか、歴史の中の事件はなぜ発生したか、どのような結果を生んだかなどといったサブジェクトの核心をつく内容になっています。しかし、現実世界では考え方だけを知っていてもツールが無ければ役に立ちません。例えば言葉は単純に文字が使える、単語を知っている、文章が構成できるという技術が必要になります。そのような毎日練習して身につけていかなければいけない科目は小さな時間のコマで毎日の時間割に少しずつ組み込まれています。

この一冊を読んで、シュタイナー学校では実際になぜこのような教育手法を取っているのかその裏側にある思想を理解しなければ分からない部分も多い事を感じました。思想の部分についても調べてみたいです。

著者が”両親は自分の経験してきた事に反発して子供に同じ経験をしないように期待を押し付ける。自分を捨てて子育てに向き合う必用がある”というような事を言っていました。この”自分を捨てる”という言葉は以前から気になっています。精神的な意味合いで、自分を捨ててもしくは無にして人に尽くすというのは確かにすばらしいことのような気がします。しかし一方で現在に至までの過程を全部捨てるという事は可能ではない以上に空虚な行動の様な気もします。この点は今までも疑問でありこれからも暫く疑問であるような気がします。